最近、有志の僧侶で禅の古典を読む勉強会を始めました。
独りで勉強することはとてもハードルが高いことなので、とても有り難い機会となっております。
禅の古典といっても様々にありますが、最近は「清規(しんぎ)」と呼ばれるジャンルのものを読んで、意見交換を行っています。
清規とは簡単に言えば、いわゆる禅寺におけるルールブックです。
例えば、「朝何時に起きて鐘を何回鳴らしなさい」とか、「僧侶としての心構えはこのようなものである」といったことが書かれています。
これが意外にも面白いもので、当時のお寺の様子や人間模様がありありと浮かび上がる内容となっているのです。
先日の勉強会では道元禅師が書いた『重雲堂式(じゅううんどうしき)』という清規を読みました。
「雲堂」とはいわゆる「修行僧が坐禅や食事、睡眠を行う僧堂(そうどう)」のことで、この本は「僧堂におけるルール」という意味になります。
例えば、「修行僧同士が争いことをしてはいけない」とか「むやみに外出をしてはいけない」といった集団生活のルールが書かれています。
(永平寺の僧堂。「雲堂」という額が掲げられているのがわかると思います)
禅寺のルールと聞くと厳しいイメージがあると思いますが、確かにそうだと思います。
私も永平寺へ修行に行きましたが、日常全ての行動において細かなルールがあります。
坐禅や法要といったことだけでなく、洗面における手順や食事における器の扱い方、さらにはトイレやお風呂での振る舞いまで決められています。
ですが、ただ厳しいだけではなく、とても理にかなっている部分も多くあります。
『重雲堂式』の中で印象に残った一文があります。
憎しみの心で人の過ちをみてはいけない。 「相手が間違っているとも言わず、自らが正しいとも言わない。そうすれば自然と上の人も下の人も敬い合う」という昔の言葉がある。 また人の悪いところを真似してはいけない。自らやるべきことをしなさい。 お釈迦様も過ちをいましめることはあっても、憎めとはおっしゃっていません。(私訳)
この言葉を見ると修行時代を思い出します。
集団生活では様々な経歴を持った人たちが集まりますが、やはり物覚えがよい人もいれば不器用な人もいて、真面目な人もいればズルをして楽をする人もいました。
もし誰かが失敗をすると、みんなに迷惑がかかります。
すると厳しい修行生活でみんな心の余裕がないため、余計に誰かの失敗や怠慢をとがめてしまいがちでした。
私も失敗を繰り返してばかりでしたが、そのことを棚に上げて他人の欠点ばかりをみていました。
「こんなこともできないのか」「自分はちゃんとやっているのにあいつはなぜやらないのだろう」と他人の過ちを許すことができない自分がいました。
道元禅師は志を共にする修行者同士、互いにいましめることがあっても憎み合ってはいけないと説かれているのです。
このことは僧侶だけに限った話ではないと感じています。
私たちは生きている上で多くの人と関係し合って生きています。
遠くから見ればこの地球という大きな部屋の中で大勢の人が集団生活しているようなものです。
しかし同時に、私たちは誰かの過ちや失敗を感情的になってとがめてしまいがちです。
なぜならそうしているときは自分が守られていると勘違いするからです。
現代はネットの掲示板やSNS等で簡単に批判することができます。
親しい者同士、当事者同士ならまだしも、全く関係がない人の人格すら否定してしまうのが怖いところです。
「俺が正しいんだ」「あいつは間違っている」
人の欲とは根深いもので、自分ばかりが可愛く、他人を認められません。
たとえ批判をして一時的に自らの気が済んだとしても、長い目で見ればそれは単なる感情の爆発にしかなっていないことが多いです。
他人の悪いところが見えて感情的になりそうな時ほど、まずは一度目を閉じて、そして冷静に今すべきことを考えるべきではないでしょうか。
同じこの世で生まれた者同士、「互いにリスペクトし合う姿勢」がとても大事なのだということを噛み締めながら、今回この『重雲堂式』を読みました。
禅の古典から学べることは多くあります。
今後も印象に残った文をご紹介していきたいと思います。
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