今週末に迫った当山の大般若会。
本年はYouTubeライブ配信でのご案内をさせて頂いております。
9日14時から予定しておりますので、よろしければご試聴ください。
さて、直前となってしまいましたが、この法要について少しお話をしたいと思います。
「大般若会」はこの一年の願いを仏様たちに祈願する法要ですが、その際に用いられるのが『大般若波羅蜜多経』、通称『大般若経』と呼ばれるお経です。
写真のように、木箱に50巻ずつ入っていて、それぞれに巻数が記されています。
そして、この木箱は12箱もあるので、あわせて計600巻もあります。
この膨大な量のお経を皆で読み、願いを祈るのが大般若会なのです。
なぜこのお経を読むことが皆の願いにつながるのか。
その理由は『大般若経』がインドから中国へと伝わってきた経緯にあり、このお経には大きな功徳があると信じられてきたからです。
仏教の教えは元々インドにおいてお釈迦様が説かれたものでありましたが、時代が下るにつれて中国へと伝わるようになりました。
教えが伝わるためにはお経を漢字に書き写す必要があります。
そこで登場するのが、訳経僧(やっきょうそう)と呼ばれる翻訳家たちです。
特に有名な方が玄奘三蔵法師(げんじょうさんぞうほうし、602〜664)でした。
『西遊記』で有名な三蔵法師のモデルともされている中国の僧侶玄奘は、27歳の時にインドへと渡り、約20年間もの大旅行の後に膨大な量の経典を持って帰ってきたことで知られています。
そんな玄奘がインドから帰ってくる時、こんな逸話が残されています。
「死の海」と称されるタクラマカン砂漠を歩いていた時のこと、ある鬼神と出会いました。
その者は首からドクロを下げ、膝には象皮の面を付けた、見た目にも恐ろしい深沙大将(じんじゃだいしょう)という鬼神でした。
深沙大将は玄奘のことを知っていました。
それは前世からの因縁があったからです。
深沙大将によれば、玄奘は6代にわたって高僧として生まれ変わり、幾度となく経典を求めてインドを訪れました。
しかし、そのたびに深沙大将はその経典を奪い取り、玄奘は命を落としてしまいました。
仏の教えが他の国へ伝わってほしくないがゆえの行為でした。
深沙大将の首飾りであるドクロはすべて玄奘の前世の末路でもあるのです。
しかし、今回ばかりはいつもと様子が異なり、深沙大将は玄奘にこう告げました。
「今回のあなたは、これまでに比べて多くの経典を持って来られました。私はこれまで仏の教えが外に流れ出てしまうことを恐れていましたが、6代にわたってあなたの強い志をようやく理解できました。これまでの行いを後悔しております。」
玄奘はその謝罪を受け入れ、深沙大将に仏の教えを守ってくれるよう願いました。
そしてその言葉どおり、深沙大将は玄奘を旅の安寧を守り、無事に中国へ多くの経典を持って帰ることが出来たのです。
こうして深沙大将は仏法の守護神として祀られるようになりました。
晩年、中国に帰ってきた玄奘は弟子たちと4年がかりで『大般若経』を訳しました。
完成後、玄奘はこんな言葉を残されています。
「今この『大般若経』の翻訳ができたこと。これはまさに諸仏や龍天といった存在の助けがあったからである。この経典は国家安泰や人々の平安をもたらす宝となるだろう。」
その言葉通り、完成に際しては多くの不思議な奇瑞(めでたい出来事)が起こりました。
また、当時の皇帝である唐の高宗も序文を寄せるなど、国家にとっても大きな期待が寄せられていました。
このことから『大般若経』の素晴らしさが中国の人々の間でも知られるようになったのです。
この3ヶ月後、玄奘は全ての力を使い果たしたかのようにこの世を去ります。
これが『大般若経』がもたらされた事の顛末です。
さて、大般若会ではいつもと異なって、本尊様の前に『十六善神』という掛け軸を掲げます。
その中ではお釈迦様や文殊菩薩、普賢菩薩だけでなく、仏法を守る四天王や神々が祀られています。
そして、先述した逸話から玄奘と深沙大将が末席に描かれています。
(当寺に掛けられる『十六善神』。左下に深沙大将、右下に玄奘三蔵法師がいます)
『大般若経』は途方もない経緯を経て伝わったがゆえに、有り難いお経として長く信仰されてきました。
そして、その功徳を今まさに生きている私達の願いへとつなげるのが、この大般若会という法要なのです。
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