春のお彼岸が始まりました。
春の陽気に誘われて境内の梅も咲き、思わず散歩したくなるような季節になってきました。
先日、あるお檀家さんよりご相談を受けました。
それは「お布施の金額を明示してほしい」というお話でした。
よくあるご相談で、多くのお檀家さんがご法事やご葬儀の際に「一体いくら包めばいいのだろうか」と悩まれることだと思います。
そして、たいていの場合は「お気持ちで結構です」という言葉が返ってくると思います。
田中寺でも「お気持ちで」とお話しした上で目安の金額をお伝えしてますが、それでも金額の明示はしておりません。
金額を明示しない理由には色々ありますが、ひとつ理由挙げるとすればお布施が「見返りを求めないもの」だからです。
永平寺を開かれた道元禅師はこんな言葉を残されています。
「その布施といふは、不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。(中略)そのもののかろきをきらはず、その功の実なるべきなり。(中略)舟をおき、橋をわたすも、布施の檀度なり。もしよく布施を学するときは、受身捨身ともにこれ布施なり、治生産業もとより布施にあらざることなし」 (『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻より)
「貪り」とは欲望に任せて飽きることなく欲しがることです。
「あれもほしい、これも欲しい、もっと欲しい」というブルーハーツの歌があるように、人は常に貪りの中に生きています。
そのような中で「こうしてやったのに、何のお返しもない」と不満を募らせたり、「相手から何の返事もないけど、何か足りなかったのではないだろうか?」と不安を覚えたりと、相手の様子を窺うことが迷いや悩みの元になってしまうかもしれません。
もし布施に価格を決めてしまえば途端に見返りを求めてしまいかねない。
そしてそれは布施を与える人にも、布施を受ける人にとっても貪りになりうるのです。
だからこそ布施をする上で、見返りを求めてはいけないと説かれているのです。
お布施とは「僧侶に対する謝礼」のイメージが強いと思いますが、本来はそれだけではありません。僧侶がお話をしたり読経を行うことも布施ですし、困っている人に思わず手を差し伸べることも布施です。
あるいは道元禅師が例で挙げているように、川を渡るために船や橋を設けることも実は不特定多数の人が助かる布施であり、さらには全ての行い(治生産業)が布施でないものはないのです。
極端なことを申せば、私たちが生きていることそのものが誰かにとっての支えとなり、助けとなる「布施」として成立するとも言えるのです。
もちろん現実には中々布施の意味について実感しづらいかもしれません。
かくいう私自身も布施することの難しさを感じています。
先日私もお布施をする機会がありました。
それはウクライナへの人道支援募金をした時のことです。
「わずかばかりでも戦災にあった方々の助けになれば」という思いでいくらかのお金を募金した後、こう思いました。
「本当にこれで十分なのだろうか。出し惜しみしていないだろうか」
どんなに新聞やテレビ、ネットといった情報を得ても、どこか他人事のように感じてしまっている自分がいる。そして次の瞬間には自らの明日の身、保身ばかり考えてしまう自分がいる。
どこまでいっても自分というものがつきまとってしまうのです。
布施した時にそこまで深刻に考える必要なんて全くありません。
ただそれでも、布施をいただいている身でありながら、布施をすることの難しさを感じてしまうのです。
だからこそ道元禅師はただひたすらに「貪るな」とおっしゃるのかもしれません。
布施とは相手に対する思いであり、自らへの問いでもあるのかもしれません。
布施をする上で、悩まれることはきっとあると思います。
そういう時は是非ご遠慮なくご相談ください。
いつもそうですが、今回の記事は特にまとまりがない内容で申し訳なく思っております。
相変わらず悩みながら、綺麗事だけでは語れないのがこの世なのだと改めて感じます。
追伸:最近こんな本を読みました。
近内悠太『世界は贈与でできている:資本主義の「すきま」を埋める倫理学』 (クリックするとリンクが飛びます)
贈与と布施が同じものと言えるか分かりませんが、とても面白かったので良かったらご覧ください。
かつてあるカード会社のCMで「お金では買えない価値がある」と言われましたが、そんなかけがえのない教えをこれからも提供したいと思います。
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